昭和42年11月2日 夜の御理解
今晩お食事をさせて頂きよりましたら、栄四郎がけたたましゅうお父さん早よ早よと云うて呼びに来ました。テレビになんかありよるから早う。お芝居かなんかありよるかと思うてから行ってみましたら、皆さんもご覧になったでしょうか。あの今日はあのなんかあの、韓国の子供でね、四才何カ月かになる子が世界一まぁ天才児といって騒がれておるわけですが、もう全く神童ですね。もう驚くばかりですが、今日それをテレビで見せてもらいましたがね、もうその云うておる事でも、する事でももう全くその人間離れしておりますですね。あの人がつくった詩の中にこんな書いておりましたがね、お母さんが千円でお洋服を買ったというわけです。僕は百円で御書物を買った。けれども僕の百円の方がお役に立っているといったようなことを書いてある。それをまだずうっともう本当にあのすばらしい詩なんですよ。お母さん千円で洋服を買った。僕は百円で御本を買った。そして僕のその百円の本の方がお役に立っているんだということです。本当にすばらしい事。最後にあの日本にみえてから僕の感じたこと。その直感したこと、そんなことをまぁ云うてくれと云うておれば、先にちゃーんと挨拶をし、日本中の人に徹底するような挨拶ですね。いわゆる日本のお爺さん、お婆さんから言うんですから、もうとてもちょっと皆さんなんて言う事じゃないですもん。お爺さんお婆さんから先に言う。そして僕たちの年代の人達にまでこう分けて挨拶をするんですよ。もう驚くばかりですね。その才知というものが最後にその日本に来て日本の第一印象、日本の状態、日本の国民の姿を見てどう言うような事を感じるかということに対してでも、もう実にその哲学的なんですよね。だからそのそれを解釈しなければ分からない。
そして結論をアナウンサーが言ってましたが、結局日本をみてそのどう感じておるかというとですね、いうておることとしておることがあべこべだと言っておりますですね。そんな感じだと、日本は。云うておることは実に見事な事を言っておるけれども、実際しておることは反対だと。確かにそうですね、公園ひとつ歩いたって分かりますよ。日本はどんなにそのまぁ文明人とか文明国家とか言ってますけれどもですね、とにかくあなた公園に行ってゴミがいっぱい散らかっているんです、そういうことがです、例えば家庭なら家庭の中でもそうなんですよ。
まぁ私今日のあのテレビを見ながら、ちょっと感じたんですけれども、あすこに新しいあのちり篭が置いてあるのを誰かがみんな上をむしってしまっておるんです。もう本当にもう心ない人達のする事かと私は思うんですよ。だからこれをしたのは残酷性あると私が云うて子供に申しました事でございます。何もない、その綺麗なあのちり篭をですよ、上をこうやってむしってしまっておる。如何にこれであなた教会の子弟でございますと言うたところで、これで例えばおかげの頂けるはずがないです。ものひとつ使わせて頂くでもです、本当に教えを頂いておることと、実際の行いというのはあべこべなんです。もうがっかりします。
先程、今御祈念中にかかる前に田中さんがお届けをされますように、最近は先生もう自分の汚さ、自分の見苦しさ、もう分かって分かって自分ながらに嫌になるような気が致しますというようなお届けをしておられます。信心を始めたたらかえってそういう不愉快な思いを嫌な嫌な本当に自分というものの汚さがあの分かってくる訳なんでございますけれども、折角田中さん、あなたが信心を頂いて信心の先が心から出来るから、その光で自分の心の中の隅々が照らし出されるからですよというて申しました事です。信心とは結局自分自身が分かること、その自分自身が本当に分からして頂くところからです、実意丁寧神信心と言うのができるのですよ。私があの椛目時代に食堂に書いて張っておりました、実意な言葉、実意な態度、それは実意な心とこの三つが書いてある。本当にその実意な心からです、例えば優しい言葉がでてこないはずがない。如何にその教えは頂いておる、立派なことを云うておるけれども、する事はどれ程の事をしておるか。だからおかげがあべこべになるんだと言うことを感じるですね。だから出来んながらも、その努めていくと言うことが大事です。
信心の光が灯る、それが五燭光が灯りゃ五燭光、十燭光がともれば十燭光、百燭光が灯りゃ百燭光、それだけ広い自分の心の隅々迄が、いわばほこりにまみれておった。垢に汚れておったりする姿が分かる。田中さんは今そこを通っておられるのだ。いわゆる愈愈自分が分かることになってきた。そこから私は実意丁寧神信心の信心は出来ると言うことをま、思うんですね。私、今日その韓国の四才と何カ月かと言う、なんとかと言う坊やですけれども、その来年からアメリカへ留学すると言うんですから、もうそりゃもう本当に只々驚くばかりです。本当に神童でしょうね。ああ言うのが。今度弟の二つになるのはもっと頭が良くなるなもしれんと言うとる。それをもう自分が一生懸命教導するそうです。その四つの坊やを。だからその神童とてもです、唯本人はとにかく努力すると言うこと。もう一生懸命勉強すると言うことです。
それがその例えばひとつの事ならひとつの事がですね、長じて天才的な例えばあの役者の子供なんかに天才だという風に言われるのは、唯踊りがうまいだけなんですね、お芝居だけ上手だけなんです。ところがこの子はもうあらゆるその学問ですかね、だけではなくて、もう情操までがですねもうすばらしいんです。もうまるきり詩人のような情操を持っているんですよね。言うならばもう本当に驚くばかりですよね。
それでもなら矢張り、精進しておると言うこと。これで良いと言うことはない。信心も学者が眼鏡をかけ、年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞとこう仰るようにです、私共もこれで良いと言うことはないのですから、もう限りなく自分自身の心が百燭光寄りも一万燭光が輝くようなですね、大きな光がでてくるといよいよ親鸞上人様じゃないけれども、吾日本一の大悪人だと言うような事にまでなってくるでしょうね。そこから生神様が生まれなさる。そこから生神様が生まれなさるのです。
私共が日々本当に実意丁寧神信心、実意丁寧な神信心と云うておることがいくらいうておっても、分かっておってもです、こういうことだと分かっておってもです、することになす事にそういうあべこべな事をしとったんじゃですね、それこそ僕にわらわれますよね。私共は本当にそのものズバリにその日本をまぁ評価したというでしょうかね、評したその言葉です、それがですね、もうああた、皆さん聞いとられたでしょうけれども、もう実にその言うことがですね、哲学的なんです、だからちょっと考えなければ分からない。というまぁ難しい言葉で日本をいわば評しておりますね。日本の国を又、日本の国民を、それで結局なら結論答えを出すとこう言うことですね。と言うてアナウンサーが言ってましたがね、まぁいろいろ教えられる事ばかりでした。どうぞお互い実意丁寧と言うことを看板にしておる私共がそれが看板だけで中では、例えば肉の看板を出しながら羊の肉を看板に出しながら、犬の肉を売っておると言う支那の有名な言葉がございますよ。実意丁寧な看板を売りながらです、実際中に入っていったところが、実意どころか、もうどこの隅々にでも実意じゃないものがある。それでまぁ私はせめてもう本当にもう夕方必ず、こう一巡してみるんですけれどもね、もう本当にここにもいらんそれこそ電気がついておったり、ゴミがしておったり、ちりが落ちておったり、もうそこにこう出て回るとそういうところをもうとにかくお互い気が付きます。ですからこれはまぁ結局私の信心だと思うんですけれども矢張りそういう努力をさして頂く。もう限りなく努力さして頂くところからですね。本当のおかげが受けられるんじゃないでしょうかね。
今日あの中村さんが二度目のお参りされた時に、先生昨日御月次祭でしょうか、その前の晩でしょうか、幸若さん、田中さん、いわゆる三人ここで御祈念頂いて帰られながらです、もう昨日の御理解は私に頂いた御理解じゃった。と言うてその幸若さんか田中さんが中村さんに、いいやもう今日んとはわたしじゃった。もうまるきりわたしのと、おっとりぐっちょのような気持ちですね。御理解を頂いておられるところに皆さんの素晴らしさがあると思うんですよ。今日の御理解は誰に聞かせるのじゃないです。もう本当に私一人の為に御理解を頂かして頂けるようなところから、いよいよ自分が田中さんが分かってきなさったと言うような感じ。そしていよいよ自分の心の中に生き生きとする。その生き生きとするような自分が生き生きとしたような自分ですら神様がこの様におかげを下さっておるところにですね、私は信心があると思うですね。本当に有り難いと言うものが深いものになって来るんです。
どうぞひとつ深いその有り難いところからですね、受けるところのおかげであって、私は本当の有り難いおかげが受けれるとこう思うですね。信心は矢張り深めて行かなければいけません。 どうぞ